ポプラ

私は小学生の時にこの街に越してきたのだけど、初夏を迎えてとても驚いたのが、ふわふわとしたたんぽぽの綿毛のようなものが無数に飛び交っていることと、しかも街の人が一向にそれを気にしていなかったことだ。私にしか見えていないのか?それともこれは幻覚なのか?と大変困惑したものである。学校に着いてクラスメイトに恐る恐る「あの……白い綿毛みたいなの、見えてる?」と聞いてみたら、「あれはポプラだよ」と教えてくれた。前に住んでいた街にはポプラの樹がなかったので、この土地にはポプラという樹があること、そしてその樹は初夏に大量の綿毛を飛ばすことを、そこで初めて知った。真相を知ってしばらくしても、「たんぽぽの綿毛が耳に入ると耳が聞こえなくなる」という迷信(?)を信じていた私は、ポプラの綿毛もきっと同様だろうと思って少し落ち着かない日々を送っていたが、次第に気にならなくなっていった。もうこの土地に住んで11年になる。最近徒歩か自転車で通学しているので、ポプラの綿毛をよく見る。この話は綿毛を見る度に毎年思い出すけれど、来年私はこの街を去るので、もうしばらく思い出さなくなるのかもしれない。

不意に思い出される幼少期の思い出というのは、とても味わい深い。たとえば昔住んでいた家の近くの公園にあった、大きなドラム缶をぐるぐる回して遊ぶ遊具で頭をぶつけて大泣きしたこと、冬にそり滑りをしていたら椅子に激突して痛かったこと、小学校の級友と給食後に牛乳パックを洗っていたらパックに入った水を唐突に頭から掛けられてとても驚いたこと、幼稚園の意地悪な女子に悪口を言われ、むっとして「あっそ」と反抗的に言い返したが意気地がなくなって「……うですか」をつけ足してちょっと丁寧にしまったこと、など。あとサプリメントネイチャーメイド(ビタミンC)やのど飴のヴィックスをお菓子替わりにばりぼり食べたりもしていた。なつかしい。人の人生には人の数だけドラマがあって、ブログはその物語をリアルタイムに辿れるものだから面白い。私は小6の時「自分はもう大人だ」と思っていたのに、いざ成人してから現役の小学生を見ると随分子どもでびっくりする。一丁前に「大人だ」と思っていた自分が恥ずかしくなる。

私も40代・50代の大人からしたらクソガキなんだろうけど、自分が40代・50代になっても、今の精神性が大きく変わるような気があまりしない。恐らく「大人になる」という作業に年齢は必ずしも重要ではなくて、どのように考え・行動し、どのような経験をしたかがその人を「大人」にするのだろうと思う。年齢を重ねた人が「大人」とみなされがちなのは、一般的に、生きている時間が長い人の方が経験を重ねていると判断されるからだろう。しかし、具体的にどのような形態になると「大人」なのかがそもそもわからない。むずかしい話だ。私はパワフル50代になれるのだろうか。早く年を取りたいけど、周りの人も年を取るのが悲しい。誰にも死んでほしくない、私だけが年を取りたい。という話。完。