無理

取引先を1つ失った予感がする。

時間を掛けないと簡潔で味気ない表現ができないのは、慣れの問題もあるかもしれない。でもそもそもわたしは簡潔で味気ない表現が嫌いなんだろうと思う。

何言ってんのかよくわかんねえクライアントの意思を汲んでると文章として不自然なものしか出来上がらないんだけど、でもその通りに書いて出すとすげえ褒められた。

べた褒めした直後の記事が微妙だったからって切ることもない気はするけど、結局あたしは仕事としての正解よりも人間としての正解を求めてしまったからダメだったんだろうな。人間としての正解なんてのも人それぞれだし、ぶっちゃけ真実がどうあれ読み手は信じたい情報だけを取捨選択していくような気がする。

たぶんわたしに商業ライターは向いてないんだな。販売の仕事をしたときも、自分が好きでないものを売りつけることにすごく罪悪感を覚えていた。怪しげだったり自分が好きでないものを売り付けるという点では商業ライターも同じだ。記事に嘘は書かなかったけど。販売のときはまずいチョコを「おいしい」ってみんなで嘘ついてた。でもお客さんは高いからって有り難がって食べるんだよな。金を出した分人は満足するってのは本当なんだなあと思った。"満足する"ってよりは"満足した気になる"の方が正しいかもしれない。

 

昨日ゆっくり記事書いてたときは「今まで無理してたんやな」と思うくらい気持ちに余裕をもって記事が書けたので、時間は掛けた方がいいなという感じがした。

でも「今後は早さと質が両立できればもっといいですね!」と言われて、そんなのは当たり前のことなんだけど、なんだかがっくり来てしまった。なんかもう、すべてにがっくり来てしまった。

何にこんながっくり来てんのかわからん。できんなら最初からやってるわ!とか、それを求めんならもっと金出せや!とか、そういう気持ちなんだろうか。微妙に違う気がする。しっかり考えて書いた文章が適当に扱われていたことに対する悲しみの方が深いかもしれない。あれでは正直誰も読まないと思う。それとも、丁寧に書くことを覚えたのに早速否定されたように感じたからだろうか。

 

しかし結局間違ってるのはあたしなんだと思う。なぜなら読者が知りたいのは情報で、あたしの文章や日本語的に正しい文章が読みたいわけではない。多少意味が微妙でも知りたい情報さえわかればそれでいいのだ。SEOを意識しすぎて日本語的に意味の通じない単語の羅列みたいになってても、情報さえわかればそれでいいんだよなあ。

 

もう20年も生きてきたのに、どこからが甘えでどこからが無理なのか、未だにわからない。

わたしが延々と寝過ごして学校に行けないのは甘えだと思うし、休みなく毎日3:00まで仕事をする状況は明確に無理だとも思う。でもコンスタントに毎日23:00くらいまで仕事してまとまった自由時間がとれない・飲みに行けないとかっていうのは、つらいことだが「無理」か?と言われると微妙。

甘えとか無理とかつらさとかそういうのは自分自身と対話すべきことであって他人の存在を気にし出すときりがないとは思うんだけど、他人と比べるとどれもこれも「無理」ではないように見えるし、自分と対話しても何をもってして「無理」としていいか全然わからない。つらくて翌日学校にいけなくなったらそれは「無理」?でも学校をサボりがちなのは昔からなのだ。

まあしかし無理であろうが甘えであろうがしんどいものはしんどくて、どうしたらいいかわからなくなる。休みたいなと思って休むけど、社会人はそんな小休止取れないわけで、そう考えると将来が恐ろしくなる。

 

みんな仕事をしている。わたしはちゃんと職に就けるのか、不安だ。