人の人生は重い

インターネットの友だちがずっと昔から書き溜めていたブログを公開していたのでずっと読んでいたんだけど、7年分近くあるのに1年くらいで変な汗と涙が止まらなくなってしんどくなってやめてしまった。

他人の人生を垣間見るのが好きで、それが趣味だからブログを読み、書いている節があるんだけど、さっきまで見ていたのは他人に見せることを前提としていないような文章だからなのか、単純に人生の節目の出来事ばかりで気が滅入るのか、わからないが、とにかく質量が重すぎて、他人の人生を生きているみたいな気持ちになってしまった。

誰と話して誰と付き合って、そういう話が自分のことのように感じられてひどく苦しくなった。わたしはその人の友人も付き合ってきた人のことも全く知らないのに。別れには傷つき、恋人との楽しい話は自分に重ねてしまって、苦しくなった。

 

人の人生は重い。思えばわたしはずっと順風満帆で、ほかの人よりもずっとつまずきを知らない人生だ、と思う。小中高淀みなく学校に行き、大学もストレートで受かった。随時確実に受かるようなところしか志望してこなかったということもあるけれど、浪人や留年の心的ストレスは想像できないくらい大きいものなんだろうなと思う。言ってしまえば逃げの人生だ。ずっと逃げている。まあでも別に満足しているので後悔は今のところない。

高校時代、わたしは今よりもずっといい子ちゃんだった(と思う)ので、人の悪口も大っぴらに言わなかったし、今より何に対しても偏見が薄かった気がする。

大学に入って住む世界が広がったため、偏見の対象がパリピからジャンルが派生して増えていっただけかもしれないが。しかし人との関わり方に関して今よりもずっと深く考えていたのは確かだ。今あの時のブログを見て学ぶことも多いだろう(多すぎて読み切れないけど)。

 

 

 

ほんの些細な出来事だが、わたしと容姿が似ている先生がいて、それを名前もよく知らないような男の子にすれ違いざま揶揄されたり、高校に入りたての頃、同級生の男の子の間でキモいよなあいつって言われてたことがあった。あと、同級生からセクハラみたいなラインを一時期送られていたこともあった。あまりにもモテなかったわたしは「女として見られている!」と思って普通に受け入れていたけど、今考えればもっと怒るべきだった。別にメスなら誰でもよかったのだ。女子の部活集団はそういう話の回りが早いので彼は早々にやばい奴認定されていたけど、彼を吊るし上げるのもかわいそうだと思って「そういうことを手あたり次第にするとよくないことが起こるよ」と忠告していた。でも別に、そんなに優しくする必要はなかった。

こんなのほんの些細なことなのにずっと消えなくて、被害者みたいな気持ちにずっとなっていた。誰にでもあるような些細なことだが、ショックだった。いや、些細ではない。当事者からしてみれば些細ではないけど、些細なことだと思ってないとやってられない。

でもみんながいい人だったのか高校生の素直さなのか、キモいと言ってた人たちも結局仲良くしてくれたし、友だちも増えた。わたしは生徒会で奔走していたし、職場みたいな話だけど、そういう日常の頑張りが評価されたのかもしれない。

友だちは「焼鳥の悪口を言う人見たことないよ」「焼鳥の悪口言う奴いたら何お前って思うよ」って言ってくれた。なんだか、事実はどうあれそこまで味方してくれる奴がいたんだからもう昇華してもいいんじゃないかと思うんだけど、折に触れて思い出してはうんざりしてしまう。わたしが『自分を軽視される』ことに関して異様に苛立つのはそういうことなのかもしれない。他人の過去を見てそういう自分の昔の話まで思い出して、つらくなった。

 

屁理屈こきなので他人が一般的に取る手段、みたいなものに関するアドバイスを素直に受け止められず、それができる人が羨ましく思う。

たとえば、将来の不安について考えてしまう場合でも、なるべく考えないようにして今の幸せだけを享受した方がいい、なるべく悪いことを考えずに生きた方がより幸福に生きられるというアドバイス。そんなこたぁわかってんだよ。わかってんだけどできねえからうじうじしてんじゃんか。なあ?と思ってしまう。どんなに大事な人にそういうことを説かれてもイマイチぴんと来ない。素直に受け止めたい。かといってあらゆることに関して「私が絶対に正しい!」と思っているわけでもない(つもり)し、わからない。彼女は素直に受け止められていてすごいなあと思った。生きてるシチュエーションとか、彼女とはあまりにも違いすぎるから、何とも言えないけど。

 

ああ、もう深夜だ。寝ないと。わたしはその友達(といっても6つか7つくらい上だし、フォローフォロワーなだけなのだけど)のことが好きだし、同じ町に住んでいるらしいことがわかったから、会えたらいいのにな、と思って、まずは彼女自身のことを知ろうと思って読み始めたのだった。

わたしにはインターネットでお世話になった大人たちがたくさんいて、みんな住む場所も職種もばらばらだけど、わたしの文章を読み、わたしの生活を見守ってくれていた人たちだ。

大学に受かった時もせんぱいとお付き合いできた時もみんな大喜びしてお祝いのコメントやプレゼントをくれて、それがすごくうれしかったし、彼ら彼女らが出産したり結婚したり、その時わたしもまたうれしかった。高校という狭い世界で酸素を失いそうになりながらもなんとか息ができたのは、絶対にインターネット、Twitter、ブログ、があったからだし(もちろん現実世界でお世話になった人もたくさんいた、先生とか図書館の司書さんとか)、だから彼女らに会いに行きたいけど、文章と違って会話はあまり上手にできないし、お互いに顔を見て話すことで何かが崩れてしまうんじゃないかと不安で、なかなか怖くて会いに行けない。

胸を張って会いに行けるような自分、というのもまた想像できない。わたしがもしYahoo!の社員とかになったら後ろめたさもなしに会いに行けるだろうか。わたしはお世話になったことをすっかり忘れて他人に恩を仇で返すようなことばかりしている気がする。会いに行って直接お礼を言うことが相手をうれしくさせるならぜひ行きたい。けど、インターネットで見せていた自分が普段他人に見せている等身大とはきっと違うから、こんなに怖いんだろう。でも、もう今年しかないから、今年絶対に行きたい。行く。まとまりがないけど今日はこのへんで。