否定と羨望・嫉妬

最近何もしていません。先日記事を書いたもののツイッターに投稿しないまま忘れていたのですが、その日のアクセス数が激増していてビビりました。たぶんポケモンGOってキーワードが引っかかったのかな。

今年の東大の入学式で挨拶をした上野千鶴子先生の本を読んでいるのですが、集中して読めていないのか、いまいち内容が頭に入ってこず困惑しています。入ってこないっていうか、あまりに男性を叩くので、困惑しています。いや、叩くという言い方は不適切なのかもしれない。上野先生の語ることこそが事実なのかもしれないし、真に冷静な目線で読めていないのはわたしなのかもしれないけど、にしてもそんなに叩く?というくらい叩く。正直「偏りの激しい人だ」みたいな評価も見ていたので、読んでから自分の偏りが加速したらやだな…と思って読むのが怖かったんですけど、こうして若干の拒否反応(?)が生まれるということは、人間はそんな一気に偏るもんじゃないのかもしれない、と思いました。まあでもわかるところもあるにはあるし、静かなところで読み進めたい感じですね。

近頃暇なので考え事をしてしまうことが多くて、気が滅入ります。考え事っていうか、SNSを見てああでもないこうでもないと思案しているだけで、大抵意味はなく、わたしの人生においてもたぶん、有益になることのない考え事です。考えない方がいいんですけど、そして考えないためには忙しくバイトをするとか自動車学校に通うとかした方がいいんですけど、だるくて家にいてしまう。ので、スマホをいじってしまう。から、考えてしまう。スマホを放り投げて映画を観たり本を読めばいいんですけど、気づくとどこからかスマホを拾ってきて、Twitterやインスタなんかを見ているんですよね。恐ろしい…スマホがなくなったらマジでうちは死んでしまうんじゃなかろうか。そんな恐怖に襲われます。

最近気づいたことですが、パパ活とか、そういうことに勝手に怒る(嫌う?)ことが多いですけど、根底には結局羨望であったり嫉妬があるんですよね。そういう価値観を表面上は「信じられない」とか否定していながらも、心の奥底ではその価値観の在り方を認め、羨ましいと思っているんだなと感じました。他人からすれば当たり前のことかもしれませんが、わたしとしては結構な気付きで、驚きました。

早く大人になって女を売ってお金貰ったりブランドもの貰ったりしてた人たちが、自らを取り巻く扱いの変容に苦悩したりすればいいのになあ、そうしたらわたしが高給になびかず己の尊厳を大事にしていたことも報われるはずだ、と思っていたんですけど、そもそも健康な精神の持ち主は「自分の女性性を売るか否か」みたいなことを1mmたりとも考えもしないかもしれないし、何よりお金持ちの人に好かれるのもよっぽど大変なことだと思うので、結局彼女らはうまく玉の輿に乗るなどしてわたしなぞよりうまく世を渡って幸せに暮らすんだろう…とも思われ、虚しいような、「そんなもんだよな」と思うような、という感じです。まあ全部妄想なんですけど。それに、「わたしが我慢したんだから我慢しなかった奴が報われるのは嫌だ」って、「俺も苦労したんだからお前も苦労しろ」みたいで、ちょっと嫌ですね。

ブランドものを渇望しているわけでもないし、好きでもない男性に施されたからと言ってなんだというんだ、ということは頭ではわかっているんですが、結局友だちとかが華やかな格好してきらびやかなご飯とかを食べている様をインスタなどで見て、自分は「いいなあ」と思っているんだな…と思うと、不思議な気持ちになります。惚気も結局「いいなあ」と思うから嫌なんでしょうね。ずっと目を背けていたことに真に向き合い、精神の靄が晴れたような気持ちです。またすぐ曇るんですが。

上を見ていても仕方がないし、五体満足に育てられて大学まで行かせてもらった時点で十分幸福だとも感じます。本当にそうだな、友だちもいい人ばっかりだし、幸せな暮らしです。様々に感謝しなければ…

今日はそんなところでした。明日は友達とお寿司を食べに行くので楽しみです。久々に都会で買い物なので、満喫します。ではまた。